夫婦別姓が社会問題化されてからかなりの年月が経ちます。すでにさまざまなところから導入についての要望が出され、多くの意見が寄せられていますが、話は遅々として進みません。その理由は、一部の自民党議員や判断を保留している多数の自民党議員が進行を妨げているためです。日本の保守政治家はこの件に何を恐れ、何を求めているのでしょうか。
保守政治家は「伝統的な家族制度」が日本の良さであり、あるべき姿だと主張しています。では、彼らの主張する「良さ」とは何でしょうか。
彼らの信念は、日本の国体を守るために、その基盤である旧来の家族制度を維持しなければならないというものです。家族は互いに助け合い、支え合うことが最優先であり、親や子供、祖父母が密接な関係を築くことで理想的な支え合いが可能になると考えています。家族内では、父親が経済的支柱となり、母親が家庭内の役割を担うことが一般的で理想的とされます。しかし、この考え方は父親の役割を第一とし、母親の役割を補助的なものとしています。
「家族の安定性」が「社会の安定性」や「国家の安定性」につながると彼らは主張します。そのため、国の行政機関にも「こども家庭庁(Children and Families Agency)」と家庭(Families)の名をあえて入れています。しかし、この考え方は管理しやすい仕組み作りであると言えます。為政者は家庭を管理しやすい社会にし、その上に国家を成り立たせようとします。これは統治者の都合のよい説明に過ぎません。こどもだけを対象にした行政庁であれば「こども庁」でよかったのですが、何が何でも「家庭」という言葉を入れたかったのです。
また、「伝統的」という言葉は人をだますのに都合がよいです。いかなる伝統も出発点があります。日本の長い農業国の歴史では、人的労働力が常に必要でした。親が子供を産むのは農作業を手伝わせるためであり、機械化が進んでも農業には人手が必要です。
過去60年間で農業就業人口は1200万人から250万人に減少し、GDPに占める割合も1.6%に減少しました。農業を支えていた家族労働力の重要性は低下しました。「伝統的」と言われてきた農業の位置づけは大きく変わりました。今でははこどもを労働力とはみなしません。伝統と言えども末永く普遍で続くものではありません。変化が必要です。
総務省は説明の中では「伝統的」という表現を避け、「慣行」という言葉を用いています。夫婦同姓の慣行が定着したのは明治時代からであり、明治31年に施行された民法で同じ姓とすることが制度化されました。それ以前は徳川時代まで苗字の使用が許されておらず、明治9年の段階では妻の氏は実家の氏を用いていました。したがって、夫婦は別姓でした。
保守層は夫婦同姓でなければ家庭の基盤が崩れ、社会に混乱を招くと主張します。しかし、夫婦が同じ姓を使うことで共通の価値観を持ち、支え合うことができると信じる点に問題があります。家庭内の愛情が育まれていれば、姓が異なっていても関係ありません。
保守層は、同じ家庭内で姓が異なる子供たちが混乱すると主張しますが、これは誤りです。多くの国で姓が異なる家庭が存在し、大きな問題となっていません。夫婦別姓に反対する人々は、家庭崩壊ではなく、国が都合良く治めるための基盤がなくなることを恐れているだけです。広く世界に視野を広げ、ガラパゴス化した日本の伝統という価値を見直したいものです。
2025年2月1日