"勇気をもらった!”という言葉がある。いろんな場面で使われている。特に多いのがスポーツでの場面である。アスリートが必死になって頑張っている。その姿をみたひとが”勇気をもらった”と表現する。あるいは音楽でもある。歌詞に含まれている言葉で”励まされた”そしてそのことから”勇気をもらった”というような表現である。こちらは言葉があるから関連性は深いかもしれない。しかし人の何らかの行動をみて、そこから”勇気”というものはもらえるものなのだろうか。
なぜかしら自分にはこの言葉がしっくりと響いてこない。今まで生きてきたなかでこのような経験がなかったからだろう。たしかに先生、先輩、上司、友人、家族、いろんな人から励まされたり、慰められたことは山ほどある。そのことにより、自分の気持ちが軽くなったとか元気になれたということはある。
だが、勇気を貰えたと感じたことはない。勇気というのは怖気(おじけ)づいている自分があり、怖気の原因となっているものからの跳躍、飛躍であるからではないだろうか。
困ったときの広辞苑頼みではないが、手元の広辞苑をひいてみる。簡単な説明しかないが、こう書かれている。
勇ましい意気。物に恐れない気概。
自分の前に存在する何らかの困難、苦しみ、不明な物、漠然とした不安、そういったものに毅然と立ち向かえる気持ちである。
用例としてはこんなものがある。
「勇気が湧く」
「勇気を出す」
どちらも自分の意思で生み出すもののような気がする。他人からもらうようなものではないかと思うのだが。
こんなふうに話すと、言葉の使い方にケチを付けているだけのように思われるかもしれないが、言いたいのはそうではない。
"勇気をもらった!”という表現で必要以上に対象者をあがめてしまうそういった風潮である。突然ヒーローを作り出し、その場を必要以上に盛り上げようとする世の空気である。盛り上がっていないと場違いなひと、仲間はずれにしてやれ、という世の動きが怖いのである。そこに同調していないと取り残されてしまうという雰囲気が時代を作っている。
なんともいえない不気味さである。
ここで一服 南伊豆町下賀茂の川津桜
2022年3月3日