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みずから我が涙をぬぐいたまう日
講談社文芸文庫    
解説:渡辺広士
定価:874円(税別)
頁:129頁(文庫)
ISBN4-06-196114-
カバーデザイン:菊地信義 初出:1971年(昭和46年) 雑誌『群像』10月号掲載
天皇制の問題について

 単行本(文庫本)ではこの作品の冒頭に「二つの中篇をむすぶ作家のノート」がついている。それによると作者はいまだ単行本として出版していない『セブンティーン』第二部の末尾の一節
   純粋天皇の胎水しぶく暗黒星雲を下降する
を引用しながら、三島由紀夫の割腹自死を連想させる事件との結び付けを考えている。日本の天皇制の問題にこだわり続けている。
  
 この作品は多くの人が評していますが、大江作品の中でも難解度の高いものです。特に若い人にとっては天皇制ということにあまり関心がないでしょうし、社会も今この制度を議論したがっているということもない中でこの作品を読むことはなかなか大変かもしれません。
 三島の自決に衝撃を受けた世代のひとにとってはまだ興味が持てるかもしれませんが、現代において三島作品もその評価は別として多くの人に読まれているとは思えません。
 あえて、すぐに読む必要はないかもしれません。それに本も非常に入手が難しくなっています。

 わたし個人にとっては作者の文体に対する強い取り組みが感じられて興味深く読みます。他の作品と同じく想像力をしっかりともって読まないと理解がすすみません。誇張が多いのも特長のひとつです。

 しかしいろんなところでユーモアーを感じることもできます。
 例えばこの作品の冒頭のユーモラスなシーンを思い描いてみてください。
 年齢35歳で自分の病気を肝臓ガンと信じている男がいる。肝臓ガンと言っているが実は入院している病棟は神経科であり、彼は残された時間が限られているため妻あるいは看護婦とおぼしき女にベッドの上で口述筆記をさせている。その男はなぜか緑色のセロファン紙を貼りつけた水中メガネをかけている。(入院患者であるのに)男が語ったのは、ある真夜中に回転式鼻毛切り機で一本残らず鼻毛を切ろうとしていたところ、突然異様なほど小柄なくせに髭ダルマ風な容貌の男がベッドの裾に座り込んで、いったいおまえはなんだ!と泡をふいて叫んだところ。
 これだけでも吹き出したくなってしまう。こんなことが現実にはあるとはとても思えません。

 でも、この内容を作者はおそらく何度か書き直して、結果的には読者には難解にしか思えない表現にしていった。自分の文体を練り上げていったのでしょう。そのためにここでクスッと笑えない読者が何人もでてしまった。
 もっとわかりやすく書いてくれれば大勢のひとが楽しめたのだろうが。でも、この磨き上げられた文体が大江の表現したい世界には欠かせないものなんだろうと思います。
 全体は口述筆記された記録文であるが、複雑に《》でくくられたところに記録者の言葉が入ってくる。とてもわかりにくいのですが、重要な作品です。

 大江さんはこの作品についてこのようなことを言ってます。

『みずから我が涙をぬぐいたまう日』は、その前に書いた『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』という小説をつないで、自分のなかで父親的なものがどういうかたちをとっているかを考えようとした。父親的なものというのは、僕には神秘主義的にいえば天皇制そのものにつながっています。(座談会 昭和文学史六 集英社 2004年刊 98頁)

 天皇制について考えてるきっかけとして読んでみるのもいいでしょう。

 「
<冒頭>

 ある真夜中、かれがローテクスの回転式鼻毛切りで、もう生きた足の上に乗っかって塵埃の巷に出てゆくこともない、自分の鼻を、猿の鼻孔さながらに、鼻毛いっぽんはえていないものにすべく、しきりに刈りこんでいると、おなじ病院の精神科病棟から抜け出てきたのか、通りすがりの変わり者か、ともかく男としては異様なほど小柄で痩せているのに、ヒゲダルマ風に毛だらけの顔だけ真丸にふくらんだやつが、やにわにかれのベッドの裾に横坐りすると、
 − いったい、おまえは、なんだ、なんだ、なんだ!と泡を吹いて叫んだ。

<出版社のコピー>

天皇に殉じて割腹、自死を遂げた作家の死に
衝撃を受けた、同じ主題を共有するもう一人の作家が
魂の奥底までを支配する<天皇制>枷をうち破って
想像力駆使して放つ”狂気を孕む同時代史”の表題作。
宇宙船基地よりの逃亡男が日本の現人神による救済を
夢見る「月の男」。 − 全く異なる二つの文体により、
現代人の危機を深刻、ユーモラスに描く中篇小説二篇。

<おすすめ度>
 ☆☆☆☆☆

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