■コギト工房 Cogito-Kobo | ||
若い読者のための大江健三郎ワールド 作品紹介 |
■大江健三郎トップページへ ■大江健三郎 まずはこれから ■大江健三郎作品一覧へ ■大江健三郎略年譜 |
メヒコの大抜け穴 |
|||
文藝春秋 | ||||
定価: 1300円(税別) 発売中止 |
||||
頁数:59頁 | ||||
ISBN4-16-308250-6 | ||||
初出:1984年5月号 雑誌『文学界』 | ||||
短編集『いかに木を殺すか4番目の作品 | ||||
短編集「いかに木を殺すか」では海外での暮らしの中で、新たに得られた構想をもとに作品は作られている。その根底には1979年に発表された長編「同時代ゲーム」がすぐには受け入れられなかったという背景がある。 カリフォルニア大学バークリーに滞在している作家の「僕」。ある日、日本の商社が開催した「日本週間」で30歳になる日本人青年来之宮君に会った。彼は自分が出演しているホモ映画に「僕」を誘った。しかひ彼の誘惑にのらないまま二人は別れた。 ここから話は複雑になってくる。 「僕」は「『雨の木(レイン・ツリー)』」の首吊り男」を書いた。なんと作家大江健三郎がしっかりと顔を出している。そしてこの作品を書いたときの創作裏話が始まる。世間に発表されて一定の評価を得ている小説のその創作家庭を小説としている。エッセイではなくフィクションをまじえた小説として読者に提供しているのだ。 「『雨の木(レイン・ツリー)』」は実在していてた日本文学研究者カルロス・ネルヴォをモデルにして描いた。そのカルロスに「僕」は「同時代ゲーム」の廃棄稿とゲラ・コピイを送っていた。カルロスは発表していた「同時代ゲーム」より廃棄稿の方が面白いといい、偽版「同時代ゲーム」として出版したいと言ってきた。「僕」はカルロスが死んだあとその注釈のついた廃棄稿を大学で得られる収入の3分の1という大金を払い買い取った。作品は断片が長短二つにまとめられており、タイトルとして「メヒコの大抜け穴」がつけられていた。 ここまででも、すでに相当に複雑な構成となっている。並の作家では思いもつかないであろう発想で話はさらに進んでゆく。 この作品では大江のいわゆる私小説風作品が作者自身が考え抜いて創作していったものであることが示されている。全く新しいジャンル、といっても他の作家では真似することができないであろうが、それを開拓したことがよくわかる。大江作品の醍醐味、独特の個性を味わうにはやはりこの私小説風に慣れてゆく必要がある。読者を常に煙にまいてゆく作風は独自のユーモアに満ちている。 |
||||
<冒頭> | ||||
自分の生のさかんな部分はずっと過去のものだ、自然な衰亡の、すでに斜面なかばに立っている。その思いに生きていることを自覚するようになって、ある時が経つ。病んでいるほどの鬱屈として、夢のなかでならば大声で泣き喚くほどのものとして、それもブレイクなら全人類をひとりで体現するManが核状況の地球を見つめてそうするであろうような思いともかさねて、また時には性の渇望の端的な衰退として − これについては、年長の哲学者の、ある平安(シャンテイ)の印象の談話をしみじみと思いだすのだがー 。しかしやはりその斜面をくだりければ苦しいことが待ちうけるのだと、恐怖も感じながら。 |
||||
<出版社のコピー> | ||||
「現代的でかつ芸術的」という批評が、若くして出発した僕の短篇への励ましだった。いましめくくりの時のはじめに、八つの短篇を書いて、そこに映る自分を見る。切実な時代の影に、個の生の苦渋のあとは見まがいがたいが、ユーモアの微光もまんべんなくある。 思いがけないのは、女性的なものの力の色濃さだった。遠い幼年時の自分と、それほど遠くないはずに死、また「再生」を思う自分を結んでいる。知的な経験と、森のなかの谷間の神話を、懐かしく媒介しているのも女性的なものだ。(大江健三郎) 想像力の大翼を駆って構築 する洵爛たる小説宇宙 四国の森のなかの谷間を舞台に、神話的伝承に支えられて 森を防衛する勇敢な女たち。グロテスクな性、滑稽な性の 饗宴と笑いにはじまり、優しさの極みに至る大江文学の傑作! |
||||
<おすすめ度> | ||||
☆☆☆☆ 発売中止 |
||||
Copyright 2004 Cogito-Kobo All rights reserved |