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講談社文庫 | ||||
解説:沼野充義 | ||||
定価:619円(税別) | ||||
ISBN4-06-273990-9 | ||||
カバーデザイン:司 修 | ||||
大きな喪失、そして新たな再生へ向けて! 感動の作品 | ||||
大江健三郎を過去の作品からでなく、新しい作品から入りたいと思っている人へのお勧め本。 深い作品ではあるがエンターテーメントとしての面白さに溢れている。 この作品は完全なフィクションであるが、入り方として伊丹十三の自殺への興味からでもいいのではないでしょうか。そんなうすっぺらな覗き見気分を,いとも簡単に砕いてしまうパワーに溢れている作品です。すごいとしか言いようがありません。 特に最後の章「終章 モーリス・センダックの絵本」での深さはなんなんだろう。この章の主人公は今までの古義人(コギト)から、彼の妻千樫に替わり、今までの語り口とは大きく変化します。この章を読むためにそれまでの章がわかりにくくても我慢して読んでみてほしい。 大江作品を読む楽しみのひとつに文中に大江作品を見つけ出すことがあります。これは大江自身が他作品として書いてきた文章を自分の小説の中に引用ををすることがよくあるのですが、これを発見する楽しみです。このことは多分にマニアチックであり、一般の人に誰にでも勧めるものではありません。 今回の作品の中にもこんなところがあります。文庫での360ページ、浦さんという若い女性が千樫に古義人が英文で書いてドイツ語に訳されている文章を日本語に訳しながら読むところです。<秋のなかば、強い雨が降る日、それでもわたしは森に入りました>から始まり363ページ前半まで引用された部分。これは『”自分の木”の下で』という本の中の「なぜ子供は学校に行かねばならないのか」というエッセイに書かれている病気になった子と母とのやりとりの部分です。小説の中で読んでも、あるいはエッセイとして読んでも、どちらで読んでみてもとても自然で感動的な文章です。ぜひ、読んでいただきたいところです。 もっとも、大江のユーモアー溢れるところはこのようなことを作品の中で揶揄して楽しんでいることです。本の220ページで伊丹十三(作品の中では吾良、でも実は大江自身かも)が大江作品について批判をするところです。 「ところが、古義人はさ、考えてみれば驚くべきことだが、この三十年ほども、読者のことを考えて主題と書き方を選んだ形跡がない!きみは小説の第一稿を書いた後、一日十時間働く日々を延々と重ねてさ、すっかり書きなおすだろう?当然に文章は読みづらいものになってゆく。確かに練り上げられてはいるが、自然な呼吸じゃない人工の音楽になるからね。 ー中略ー 加えてきみの自己言及癖!おれはさ、一般によく非難されるように、きみの新作に引用される旧作をすべて読んでいなければ、新作が理解できない、とまではいわないよ。それが、きみの性格で、引用される部分を読むだけでわかるようには書かれているんだ。律儀なものさ。」 とこんなふうにでてきます。そうだ、そうだ、もっとわかりやすく書いてくれ、引用はやめてくれ、と思わず相槌をうちたくなりますが、まんまと作者の手中にはめられてしまったことを感じます。 げらげらまでは笑えませんが、実に巧妙にユーモアーがしかけられていていて、くすくす笑ってしまいます。こんなことを発見できるのも大江作品の楽しさです。 |
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<冒頭> | ||||
書斎のなかの兵隊ベッドで、ヘッドフォーンに耳をすませている古義人に、 ・・・・・・・・・そういうことだ、おれは向こう側に移行する、といった後、ドシンという大きい 音が響いた。しばらく無音のときがあって、しかし、おれはきみとの交信を断つのじゃない、 と吾良は続けていた。 |
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<出版社のコピー> | ||||
国際的な作家古義人(コギト)の義兄で映画監督の吾良が自殺した。同期に不審を抱き鬱々と暮す古義人は悲哀から逃れるようにドイツへ発つが、そこで偶然吾良の死の手掛かりを得、徐々に真実が立ち現れる。ヤクザの襲撃、性的遍歴、半世紀前の四国での衝撃的な事件・・・大きな喪失を新生の希望へと繋ぐ、感動の長編! |
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<おすすめ度> | ||||
☆☆☆☆☆ | ||||
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